2004年 09月 19日
ある引揚者の話 |
「会いたい人には会っておけ」と良く言われるが、会わずに後悔しないためにも、是非そうすべきだ。
「どうしているかなぁ・・・」
卒業後、2度ほど会いはしたけれど、ここ10年以上、顔を会わせずにいた柏の親戚が亡くなった。
年を追う毎に、年賀状の文字から力強さが感じられなくなって来ていて、大丈夫かなぁ・・と心配してはいたのだけれど、やはり大丈夫では無かった様だ。
30日夜、家に戻ると実家の母から、「柏のおじさん」の訃報を聞いた。
「香典を預けるなら、行く人に頼んであげるよ・・」
と言われたのだが、断った。
遅すぎる・・と言われようと、顔を見たかった。
納棺前に会いたいと願った。
納棺は1日13時、との話。
31日深夜に車を飛ばし、途中仮眠を取りながら、7:30に柏に着いた。
相変わらず16号は混んでいたが、インターを降りてすぐの「十余二工業団地」(とよふた)の看板は懐かしかった。
キムラヤの工場を左折して、16号と平行して走る国道を行ったところに、宿直警備員のアルバイトをしていた「田中小学校」がある。
その先のあやしげなホテル街の左を入ったところが「おじさん」の家だった。
長男にも関わらず満州に渡り、戦後引き上げても、実家には入らず、弟に譲り、千葉の沼地を干拓して耕地に変え、住み着いた・・・そんな話を、よく聞かせてくれた。
剛胆な、大陸的な人だった。
破天荒・・・だったのかもしれない。
干拓によって広大な水田と宅地を手に入れ、自宅の「庭先」に6棟程の個建てアパートを持っていたりもした。
15、6年程前、突然現れて、(少し酔っぱらって居た)「カツアキの絵が欲しくなってなぁ・・」
と、僕の家に来て、「アトリエに連れてけ」と、駄々をこねた。
仕方なくカツアキさんに頼んで、絵を見せてもらいに行ったことがあった。
「絵が欲しいと言って貰えるのが、画家は一番うれしいですよ」
カツアキさんは、いつものようにニコニコしながら、信州の風景画を見せてくれた。
写実的では無い彼の絵は、どのピークがどの山を描いていると言える類の絵ではない。ただただ明るい信州の風景・・・、その底抜けに明るい画面が特徴と言える。
おじさんは、「孫が家を出るんで、じいちゃんの「ふるさと」の風景画をあげたいんだ・・」
そう言って、諏訪湖と立科山(にも見える)絵を買っていった。
嵐の様に現れ、嵐の様に去っていった、おじさんが印象的だった。
そう言えば、父の年代の人には、おじさんの様な剛胆を地で行くタイプが多い様な気がする。
結果は「侵略」と烙印を押されてしまても、かつてアジアの曙を夢見て大陸に渡った、農民や、技師や、商社員・・そんな過去を持っている世代なのだ。
今の若者より、ある意味、ずっと国際的なのかもしれない。
デニーズ柏店でトーストを食べながら、過ぎ去った30年の月日を思い返している。
・・・・やはり野田校舎を見に行こう・・・・そして「秀悦寮」も。
「どうしているかなぁ・・・」
卒業後、2度ほど会いはしたけれど、ここ10年以上、顔を会わせずにいた柏の親戚が亡くなった。
年を追う毎に、年賀状の文字から力強さが感じられなくなって来ていて、大丈夫かなぁ・・と心配してはいたのだけれど、やはり大丈夫では無かった様だ。
30日夜、家に戻ると実家の母から、「柏のおじさん」の訃報を聞いた。
「香典を預けるなら、行く人に頼んであげるよ・・」
と言われたのだが、断った。
遅すぎる・・と言われようと、顔を見たかった。
納棺前に会いたいと願った。
納棺は1日13時、との話。
31日深夜に車を飛ばし、途中仮眠を取りながら、7:30に柏に着いた。
相変わらず16号は混んでいたが、インターを降りてすぐの「十余二工業団地」(とよふた)の看板は懐かしかった。
キムラヤの工場を左折して、16号と平行して走る国道を行ったところに、宿直警備員のアルバイトをしていた「田中小学校」がある。
その先のあやしげなホテル街の左を入ったところが「おじさん」の家だった。
長男にも関わらず満州に渡り、戦後引き上げても、実家には入らず、弟に譲り、千葉の沼地を干拓して耕地に変え、住み着いた・・・そんな話を、よく聞かせてくれた。
剛胆な、大陸的な人だった。
破天荒・・・だったのかもしれない。
干拓によって広大な水田と宅地を手に入れ、自宅の「庭先」に6棟程の個建てアパートを持っていたりもした。
15、6年程前、突然現れて、(少し酔っぱらって居た)「カツアキの絵が欲しくなってなぁ・・」
と、僕の家に来て、「アトリエに連れてけ」と、駄々をこねた。
仕方なくカツアキさんに頼んで、絵を見せてもらいに行ったことがあった。
「絵が欲しいと言って貰えるのが、画家は一番うれしいですよ」
カツアキさんは、いつものようにニコニコしながら、信州の風景画を見せてくれた。
写実的では無い彼の絵は、どのピークがどの山を描いていると言える類の絵ではない。ただただ明るい信州の風景・・・、その底抜けに明るい画面が特徴と言える。
おじさんは、「孫が家を出るんで、じいちゃんの「ふるさと」の風景画をあげたいんだ・・」
そう言って、諏訪湖と立科山(にも見える)絵を買っていった。
嵐の様に現れ、嵐の様に去っていった、おじさんが印象的だった。
そう言えば、父の年代の人には、おじさんの様な剛胆を地で行くタイプが多い様な気がする。
結果は「侵略」と烙印を押されてしまても、かつてアジアの曙を夢見て大陸に渡った、農民や、技師や、商社員・・そんな過去を持っている世代なのだ。
今の若者より、ある意味、ずっと国際的なのかもしれない。
デニーズ柏店でトーストを食べながら、過ぎ去った30年の月日を思い返している。
・・・・やはり野田校舎を見に行こう・・・・そして「秀悦寮」も。
by freepa
| 2004-09-19 23:49
| 日記