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2011年 10月 31日
ゆるキャラコンテスト、ぴっかりちゃんに1票を!!
http://www.yurugp.jp/yuruchar.php?id=165&uk= ↑のサイトでぴっかりちゃんに1票お願いします。 毎日1ピッカリ運動にご協力、お願いしますm( _ _ )m ![]()
2005年 05月 23日
おかしな夢を見た。
夢の中で私は講演会の講師となっている。 講演のテーマが「ヌーブラ攻略法」。 なんで私が、そんなテーマで講演せねばならんのか! 深層心理にどの様なストレスを抱えての結果か、判断に苦しむ所であるが、前日、国際交流協会の親睦会で盛り上がった「おっぱいネタ」が強く心に残っていたのであろう事は想像に難くない(爆) テーブルの片隅で3、4人の理事と盛り上がっていたのだが、その話題の途中で私は意識不明になり、廊下でうなっていたので、気持ちの中ではその話題の終止符が打たれていなかったのだろう。 ![]() ヌーブラねぇ・・・確かに攻めにくそうだ。(爆) フロント・ホック・ブラの登場時以上の困難さを感じさせる。 歴史的にブラの普及と女性の職場進出、社会的地位向上の時期は相関しているのではないだろうか? とりわけ米国において。 日本では、デモクラシーの定着と無縁ではなさそうだ。 件のヌーブラに付いて考えると、もっと大きな変化が起きていると思える。 女性の意識の2極分化・・・・みたいな。 ![]() ブラに限らず、女性の身につける下着は、着こなし方次第で、清楚にも淫らにも演出が可能だった。 同じタイプのブラでさえ、すこし着崩すだけで、そそられてしまう程、着こなしは多様であったのだ。 ところが、ヌーブラに”着こなし”などと言う概念は皆無だ。 ずれたヌーブラに色気を感じる男は居まい。 シャラポア型付け乳首にも同様の危機感を感じる。 彼女達は男を性的な対象と見ていないのだ。 自分を格好良く演出はする、だが、自分自身の本質は決して見せたくは無い。 結婚願望など捨て去った、自立型の女性の典型を見るような気がするのだが・・・ 貴兄の上司はヌーブラ愛用者ではないか?
2005年 01月 02日
毎年、決めてるスローガン。
今年は「きっぱり」とした。 「さっぱり」でも「めっきり」でも「やっぱり」でもなく「きっぱり」なのだ。 後に続く語に「断る」「やめる」「別れる」・・・なんか否定的な言葉が思い浮かぶところが、ちょい辛いところだが、曖昧、ゆるゆる、の側に少し揺れすぎた生活の軸心をちょっと戻そうと言う魂胆。 休部状態の某写真クラブとも関係をはっきりしたいし、名前だけになってしまっている市民団体にも白黒つけるべき・・・。 そんな、こんなの気持ちから、「きっぱり」とした態度で、この1年生きられたら・・・と、言う端からアヤシイが。 「きっぱりと八方美人」だ、とは断言出来る(爆) さて、元旦。 寝正月を決め込んでいたのだったが、昼頃起きて、外を見たら、日差しが・・・ 晴れていたら、初日の出は霧訪で・・と考えていたことを思い出し、即刻予定変更、小野へ向かった。 この辺が「きっぱり」なのだ。 両小野中学前にクルマを停め、歩き始めたのが1:00ちょうど。 25日の三浦家忘年会(三浦さんは「我が家のパーティー」と呼ぶ)で、Tさん、Iさんから、”簡単に登れて、なかなか眺望の良い山”と、初日の出ビスタポイントとして薦められていたのだったが、週間予報で元日は「雪」と聞いていたので、大晦日はオーリアッドで騒いで、もう元旦は寝正月と決めていたのだった。 最初はキツイと聞いていたが、とっつきから、中盤まで、ずっと僕にはキツイ登りだった。 「1時間で登れる」と言われていたけど、前山のピークまでで、たっぷりと1時間は掛かってしまった。 ![]() だが、汗をびっしょりかいて、辿り着いた山頂からは、すばらしい眺めを楽しめた。 雲に隠れ、八ヶ岳の上部は見られなかったが、雲さえなければ、たぶん御岳や北、南も富士も八も浅間もずーーと見渡せそうだった。 体力が回復したら、また登って見たいと思った山でした。 ![]()
2004年 12月 23日
2004年12月21日
某社へ見積書を出した帰りに、伊那市にある電器屋とカメラ 量販点に立ち寄った。 電器屋でステレオミニジャックの延長コードを買い、所狭しと並んだ デジカメをチェック。 似たようなカードタイプ、L型ボディーの一眼レフタイプ・・・・どうにもコレ!って物が見あたらない。 本格一眼レフ、ニコンD2クラスと、手のひらタイプのサイバーショットかIXYがあれば十分と思う私には、その中間的なカード型ズームとか、コンパクトカメラもどきデジカメには興味が湧いて来ない。 そんなわけで、超小型サイバーショット、IXYの陳列が無かったので、カメラ屋へいってニコンでも拝ませてもらおうか・・・と、近傍移動。 カメラ屋に入って驚いた。 まー、平日の午後って事もあるけれど、電気屋に比べたらまるっきり人の気配が無いのです。 さらに、驚くべきは、ショーケース。 カメラが無い!! 去年来たときの1/5以下になってました。フィルムタイプの一眼レフは皆無。高級デジカメもキヤノンとミノルタ、ニコンのものを各1台のみ展示。まったく、がらーんとしている。 中間的コンセプトの商品など要らない、という私の欲求は、まさに世の中の少数派で、世の多くの方々は、あの量販店に並んだ、「どっちでもいいじゃん」的などんぐりの中から、変わりばえのしないものを購入していくのだろう。 そもそも、小売り業が衰退している昨今、一部の高級機と見捨てられたフィルム・メディア・カメラなど扱っている店に足を運ぶ客は少ないのだろう。 客は少ない、物は捌けない、商品をおけない、だから人がこない・・の悪循環。大変だね・・と思いながら、100と400のリバーサルとコンパクトカメラ用にネガフィルムを買った。 「12000円です」 うわ!高っ! 1GのCFカード買った方が良かったかもしれない。 フィルム買うのも、今年が最後かなぁ・・・などと思った。 帰途、久々に「ラ・フォーリア」(喫茶の方)に寄ってコーヒーなど飲みながら、コ ![]()
2004年 12月 14日
13日深夜~14日未明にかけて双子座流星群が見られる・・・と朝のTVで言っていた。
ネットで調べると、ほぼ天頂から西の方向に見られる、とのこと。 辰野で西の方角に広く開いている高台といえば、豊南短大の駐車場しか思い浮かばない。 何度か、夜景を取りに行っている。今回はASA1600のリバーサルに50mmF1.4レンズ つけて、15分~20分のバルブで撮ってみよう・・とその時は思っていた。 が、午後になって、すっかり忘れてしまった。買い物には出かけたのだったが、別物だけ買って、帰宅してしまっていたのだった。 「あ、フイルム!」と、気が付いたのは午後8:20分。 やってもーた。 こんな時ですね、普段に増して、デジカメが欲しくなるのは。 ![]() まあ、フィルム無くっても、見えない訳では無いのですから・・・と、1時頃デッキに出てみると、流れる流れる・・・しし座流星群の時より数は多かった様な感じでした。あっちの方が明るかったとは思うけど。 何はともあれ、10分程で長いのを3つ、暗いのを5つ、気配だけ見たいな、瞬間閃光(むろん、暗い)が3つ位・・・十分楽しめました。
2004年 10月 13日
あれは、いつの事だったろう・・?
2000年か、2001年か・・駒ヶ根「樹」で行われた、タブラヂリスナー忘年会に、すずめのお宿さんが3人のストリートミュージシャンを連れて来た。 YAMASHOWSとの出会いだった。 むかし、会社員だった頃、社内の若者が組んだロックバンドを追っかけ取材していた時期があった。ドキュメンタリー・フォトを撮るのが趣味だったのだ。 そんな、昔の熱気を呼び覚ませる若者たちだった。荒削りなハーモニーはお互いに歩み寄る事無く、油と水的な2人の個性は妙な緊張感に満ちていた。 翌年佐久で行われたホールライブの後、控え室から出てきた時の、涙でぐしゃぐしゃになっていたみかちゃんの姿も感動的だった。その翌年から本格的に追っかけ取材を続けている。写真県展へ応募を続けているのだが、2年連続の落選を喫している。 2002年6月と、2003年10月、辰野町オーリアッドでライブを企画して、その様子も取材。言ってみれば「ヤラセ」と言えなくも無い。 最近は映像的にも、いい素材となって来ていると思う。ライブの「出来」にバラツキはあるのだけれど、出会った頃に比べたらずいぶん洗練されて来ているし、なぜブレイクしないのか不思議だ・・・ 2003年の「紅白」に「ゆず」が出て、伊勢崎町の伊勢丹前から中継していたのを見て、松本縄手から「ヤマショウズ」が紅白出場を果たしてもいいのではないか!と思った。 そして、おっかけオジサンは”2004年の紅白出場”を年間目標にする事を公言してしまった。 今年、写真県展は予選落ち、すでに10月となったが、ヤマショウズにもブレイクの兆しは見えてこない。 目標の未達はほぼ確実となった。 ファンとしては敗北宣言せざるを得ない。 いや、強気の男達に「敗北」という言葉は似つかわしくない。「目標変更」と言っておこう。 2006年写真県展入選、2007年紅白出場、2008年北京五輪NHK応援ソング、キャンペーン・アーティストに選出・・・ 次の目標に向かって応援も頑張りたい。 敏腕プロデューサーとの「出会い」は何時だ!!? 日本のジョージ・マーティンは何処を見ているんだ!! がんばれ、ヤマショウズ!! 10月10日のオーリアッド飛び入りライブも良かった!
2004年 10月 09日
鎌田院長の諏訪中央病院に義父が転院して50日近くが経つ。
脳梗塞で倒れたのが5月の末、「人間らしい表情にもどるかすら期待できない」 「別な人格と思って頂きたい」 死を越える程の宣告を受けて4ヶ月。義父は奇跡の回復力で、自力呼吸、通常食、車椅子・・・ 次々と難度の高い課題を与えられては、何とかクリアしてきた。 言語リハビリを集中的に行いたい、との家族の要望から、8月諏訪中央へ移ったのだった。 昨日、早く仕事が終わったので、久しぶりに見舞った。 義父に理解出来ようと出来まいと、ヒアリングもリハビリだろうと、一方的にしゃべりまくった。 ボランティアの事、仕事のこと、リハビリのこと、退院受け入れの事・・・ 話し疲れて、ふと見ると、テーブルに置かれた言語リハビリノートを発見。 言語訓練師と義父とのやり取りが書かれている。 「おなまえは?」 の後に義父の名前が漢字で書かれている。 訓練師の書いたその漢字の隣りに、痛々しい義父の字が2つ並んでいた。 左脳の機能をほとんど失ってしまった義父は右半身が全く動かせない。 握力も落ちた左手で、必死に書いたに違いない。 脳は、本当に不思議な器官だ。 左手に正確な動作指令を与える事は出来なくても、自分に小学生以下の運筆能力しかない事、絶えがたい屈辱感を与える事は出来る様だ。 残酷な現実。 何か言おうとして話し始め、義父は「しまった・・」といった表情をして、すぐに口を閉ざしてしまう。 言葉が出ないのだ。 気持ちはのど元まで来ているというのに・・ 「大丈夫だよ、時間はたっぷりあるんだから。」 「焦らず、のんびり行きましょう」 夕暮れの八ヶ岳を見ながら、私は義父を慰めるつもりで言った。 帰りがけ、 「今日はもう・・(いいよ、ありがとう)」と、いつもの様に言い、僕の手を握ると何か言おうとして突然、声を上げて泣き出してしまった。 剃り残った硬い髭を頬に感じながら、丸くなった背中をさすり、 「大丈夫。大丈夫だから。」何度も何度も言い、部屋を後にした。 ICUで担当医から死の宣告を受けながらも、いつか車椅子に乗った義父を散歩に連れ出すぞ・・そう心に決めた日が、もう随分昔の事のように思い出された。 いま、僕の目には、自宅を歩く義父が見える。 大丈夫さ、ここでくたばっちまったら、じいさん、あんたの人生は何だったの?って事になっちまうぜ。 「がんばらない」でいい。 でも 「あきらめない」でくれ。 ![]()
2004年 09月 26日
![]() 昨年はヤマショウズのパネル2枚出品して、全滅。門前払い。 今年は、吟味して、ヤマショウズ・ドキュメンタリーを1枚、花火をモチーフに1枚出品。 たぶん、今年も門前払い状態だったのでしょう(爆) 入賞者の顔ぶれは、やはりベテランが多い。 県写連風ともいえる作品が今年も上位をしめる事だろう。 それも、また良し。 もともと、僕の写真とは方向が違っているので、比較しようとは思っていない。 報道写真とゲージュツ写真の違い・・程の差は無いかもしれないけれど、送り手は、それくらいの落差を付けたいと意気込んでいる。 目論見が成就すれば、きっとヤマショウズのパネルが県展の壁面に吊るされることだろう。 来年も懲りずに「ヤマショウズ」で行きます。 今年、欲しかったカットはノリノリの観客の表情。 昨年足りなかった、もっちゃんのアップは撮れたので、来年は客席のみなさんに頑張って貰いたい! 他力本願がドキュメンタリー・フォトグラファーの基本(マジ?)です。
2004年 09月 19日
「会いたい人には会っておけ」と良く言われるが、会わずに後悔しないためにも、是非そうすべきだ。
「どうしているかなぁ・・・」 卒業後、2度ほど会いはしたけれど、ここ10年以上、顔を会わせずにいた柏の親戚が亡くなった。 年を追う毎に、年賀状の文字から力強さが感じられなくなって来ていて、大丈夫かなぁ・・と心配してはいたのだけれど、やはり大丈夫では無かった様だ。 30日夜、家に戻ると実家の母から、「柏のおじさん」の訃報を聞いた。 「香典を預けるなら、行く人に頼んであげるよ・・」 と言われたのだが、断った。 遅すぎる・・と言われようと、顔を見たかった。 納棺前に会いたいと願った。 納棺は1日13時、との話。 31日深夜に車を飛ばし、途中仮眠を取りながら、7:30に柏に着いた。 相変わらず16号は混んでいたが、インターを降りてすぐの「十余二工業団地」(とよふた)の看板は懐かしかった。 キムラヤの工場を左折して、16号と平行して走る国道を行ったところに、宿直警備員のアルバイトをしていた「田中小学校」がある。 その先のあやしげなホテル街の左を入ったところが「おじさん」の家だった。 長男にも関わらず満州に渡り、戦後引き上げても、実家には入らず、弟に譲り、千葉の沼地を干拓して耕地に変え、住み着いた・・・そんな話を、よく聞かせてくれた。 剛胆な、大陸的な人だった。 破天荒・・・だったのかもしれない。 干拓によって広大な水田と宅地を手に入れ、自宅の「庭先」に6棟程の個建てアパートを持っていたりもした。 15、6年程前、突然現れて、(少し酔っぱらって居た)「カツアキの絵が欲しくなってなぁ・・」 と、僕の家に来て、「アトリエに連れてけ」と、駄々をこねた。 仕方なくカツアキさんに頼んで、絵を見せてもらいに行ったことがあった。 「絵が欲しいと言って貰えるのが、画家は一番うれしいですよ」 カツアキさんは、いつものようにニコニコしながら、信州の風景画を見せてくれた。 写実的では無い彼の絵は、どのピークがどの山を描いていると言える類の絵ではない。ただただ明るい信州の風景・・・、その底抜けに明るい画面が特徴と言える。 おじさんは、「孫が家を出るんで、じいちゃんの「ふるさと」の風景画をあげたいんだ・・」 そう言って、諏訪湖と立科山(にも見える)絵を買っていった。 嵐の様に現れ、嵐の様に去っていった、おじさんが印象的だった。 そう言えば、父の年代の人には、おじさんの様な剛胆を地で行くタイプが多い様な気がする。 結果は「侵略」と烙印を押されてしまても、かつてアジアの曙を夢見て大陸に渡 った、農民や、技師や、商社員・・そんな過去を持っている世代なのだ。今の若者より、ある意味、ずっと国際的なのかもしれない。 デニーズ柏店でトーストを食べながら、過ぎ去った30年の月日を思い返している。 ・・・・やはり野田校舎を見に行こう・・・・そして「秀悦寮」も。 < 前のページ次のページ >
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